きおくのきろく

フィクションとノンフィクションを混ぜて書いています

ピンク 時々 ミント

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不動産契約が終わった後、私は三軒茶屋にいた。カフェ・ド・クリエのソルベージュミントチョコが期間限定で復活しているというので、足を運んでみたのだ。

 

しかし、三軒茶屋の店舗は既に閉店になっていて店らしきものは見当たらなかった。知らなかったとはいえ、どうしたものかと考え歩いているうちに路地裏へ入った。

 

 

新しく住む地域は街全体が路地裏のような雰囲気で、私は居心地が良いと感じる土地だ。

 

管理会社のオーナーだという女性は還暦を過ぎたあたりの少しだけ顔に険のある人だった。この土地で長い間1人で不動産業を営んでいるらしく、名刺には代表という記載があった。

 

一通り契約が済むと女性はこの地域の図書館やプール、市民劇場等の話をしてくれた。

 

「本なんてね、新しいことを知るにはとっても良いきっかけになるでしょう。此処いらの図書館は土日も20時までやっていますから」

 

「そうですか。私は取立てて趣味がないものですから、図書館が近場にあるのは嬉しいです」

 

「私もね、趣味で踊なんかを嗜んでおりますから、その先の劇場もよく使いますのよ」

 

「踊りですか?素敵ですね、私は運動神経がさっぱりで…」

 

「そんなものは関係ございませんのよ、貴方みたいな方にはきっとぴったりだわ。私、先生をご紹介したいぐらいよ」

 

「私が踊りを?…想像もつかないなあ」

 

「まだ23歳でしょう?若いのに食わず嫌いはもったいないわ。ぜひ一度お稽古を見にいらっしゃい。お月謝をあまり気になさらない先生なのよ」

 

私は特に休みの日にすることも無い手前、引越しが落ち着いたら、ご挨拶の時にまたお話させてください、と 言うと女性は嬉しそうに微笑んだ。

 

「嬉しいわ、決して無理強いはしませんから、遊びにいらっしゃって頂戴。踊ってね、小さい方はあまり向かないの。貴方は背丈もあるし、背筋もお顔もきれいだし、きっと衣装も映えるわ。楽しみねえ」

 

「お稽古の見学なんてした事が無いので、なんだか緊張してしまいそうですけれど」

 

「そう、その素直さ。何事もね、素直な気持ちが大事なの。仕事も趣味も人間関係も、全部素直に向き合えばうまく行きますのよ」

 

「そうですか、…ふふふ、へへ」

 

煽てられていると分かっていながら自分より年上の女性に何かを褒められた経験が無い私はすっかり舞い上がり、調子に乗ってヘラヘラと笑ってしまった。

 

宜しかったらこれ、貰って下さいな そう言って女性はすみれ色の包に入ったタオルハンカチを差し出した。

 

「そんな、頂けません」

「いいのよ、ほら貴方がお住いになるマンションの一階は、大家さんがタオル屋さんをやってらっしゃるでしょう?お付き合いで私、タオルは沢山持ってるの。誰かに使われた方がタオルもきっと幸せだわ」

 

中身はシェルピンクとホワイトの生地ににすみれ色の刺繍が入っていた綺麗なタオルハンカチだった。

 

私は久々に暖かい気持ちになり深々と頭を下げて外へ出た。外は曇り空だが厳しい湿気と暑さで、祭囃子の音と名前の知らない歌謡曲が商店街から聞こえた。一気に現実に引き戻され、汗が吹き出した。

 

春色の気持ちはすっかり薄墨色の夏盛りとなり、足元には一匹の蝉が死んでいた。