外は夏蜜柑の匂い
随分ひどい夏風邪(夏と形容するにはまだ早すぎる気もするけれど)を引いてしまい、休みの間ずっと眠っていた。
幾分か喉の痛みは引いたし、熱もなかったけれど気持ちは弱っているらしく、体は鈍く重かった。
気がつけば日曜日の夕方になっていて、実家からの着信が数件入っていた。
「気がついたら休みが終わってて、悲しいな」
「笑点でも見たらいいじゃない、まだやってるよ」
母はそう言って電話を切った。私はひどく寂しい気持ちになった。最近の私といえば、ひどく孤独感ばかりが募って、一人ぼっちになったような気持ちになる。
会社に行けば誰かがいるし、隣町には父が住んでいる。連絡をすれば友達は返事をくれる。私は幸せ者だ。
だけれど、どうしてこんな悲しい気持ちになるのだろう。どうして私は幸せを、幸せだと言うことができないのだろう。
夕方になるとよくKan Sanoの曲を聴いている。
これは七尾旅人とのコラボで、好きな曲の一つだ。私はこの曲を聴いてさらに寂しさを募らせている。
私はちょっとした主張というものが大の苦手で、自分の誕生日や、自分が褒められたこと、自分が風邪を引いたこと、自分が困った状況にあること、そんな事をうまく言葉にする事が出来ない。
私は、自分を主役にしてお祝いをされたり、労われたりする事をとても恐怖に思う。(自分が発信した以外のこと、言わば誕生日など、私は何の努力もしていない事を労われる事が怖いのだ。頼んだ覚えは無いけれど、誕生日は私を産んだ母に私が感謝しなければならない日だと思うし、だから祝う風潮が無くなれば良いと思っている)
何の努力もせずに、何かの事象だけで誰かに注目されるという事はとても甘美だと思う。体調が悪い時に誰かに心配をされると、つい、自分は皆から大切にされているのだと、勘違いをしてしまう。
だけれど、実際その労いの言葉に深い意味などない。ただの既成事実に対して、義務的にその人は言葉を掛けただけなのだ。分かっているのに私は未だに勘違いをしそうになってしまう。
それに、自分は特別だと思い生きている人はとても多いと思う。
差し入れされた小さなアーモンドチョコレートですら、私は責められたような気持ちになる時がある。私は何もしていないのに、こんな待遇を受けて良いのだろうか?とか
そんな言葉を掛けられると、私は誰かにとって特別なのかもしれない、と思ってしまう。同時にそれは期待として膨らんでいき、いざ実現されなかった時に傍若無人な悲しみが私をふくらませ、やがて破裂するのだ。
そして、前の職場で風邪を引いて体調を崩した時の事を思い出す。休む事を許されず、体調を崩した私の責任能力の無さを責められた。風邪で声が出ずに反論も出来なかった。
いつからか私は自分の誕生日を教えなくなった。体調が悪い事も、周囲に言わなくなった。私は特段、誰の特別でもなく、そこにいるだけだからだ。
だからわたしは、人の幸せを心から喜び、言葉で伝えられる人間になりたい。見返りなど求めず、誰かを労える人間になりたい。
でもきっと、私は人の期待に応えることの出来ない、人に与えることの出来ない人間だからこれからも苦しみ続けるのだと思う。
私は誰かの特別に、いつかなれるのだろうか。